潜幸伝説

後鳥羽上皇潜幸伝説

有名な承久の乱の直前、後鳥羽上皇が二度に渡って現在の長浜市の名越方面に行幸されたという伝説があります。

当時、名越の名超寺には禅行という僧が住んでいました。彼は延暦寺にいた頃、上皇とたいそう親しくしていたことがあり、この縁故でこの行幸がなされたのです。
さて、上皇がなぜ行幸されたのかを述べる前に、当時の上皇の歴史の動きを少しお話しましょう。

後鳥羽天皇は、皇子の為仁親王を即位させ、みずからは上皇として院政を行いました。
源実朝の死により、幕府の力が弱まり状勢が有利になったと考えた上皇は倒幕の計画を立て、「北面の武士」に加えて「西面の武士」を新設し、熊野や比叡の僧兵を味方に引き入れようと、その他種々の画策をめぐらして兵力の強化をはかりました。
上皇が禅行を頼って名超寺に行幸されたのも、討幕のための勤皇の士を募るためだったのです。
まず建久10年(1199年)3月4日に一回目の行幸があり、名超寺本坊の園光院を御座所として、しばらく滞留され、この時、禅行にはじめて討幕の密旨を伝えられました。
つづいて承久2年(1220年)再度、ひそかに行幸され、坂田郡、東浅井郡の各地で多くの勤皇の士をあつめて、朝妻湊より湖上を帰られました。

 前後2回の行幸における上皇の遺跡は現在各地に数多く伝えられています。
名超寺には上皇自作の木像というのが安置されています。これは上皇が名超寺滞在中に、禅行の願を入れて、上皇の聖運隆昌を懇祈しました。禅行没後、寺の僧や村人が後鳥羽殿を建立し、その像を安置しました。その後明治11年10月明治天皇巡幸の際、この像を大津へ持って行ってお見せしたこともあり、それを機として後鳥羽神社が創建され、この像が安置され今日に至っています。この像は平常拝むことはできず、大飢饉や災害が起こった時のみ許されるとのことです。

この他色々な遺跡が伝えられていますが、いずれも真偽のほどは明白ではありません。これらを歴史的に証明する史料は何も存在していません。

参考:長浜の歴史 昭和49年

潜幸中に詠まれた歌について

潜幸中の名越にて・・・
「近江なる名超の森の呼子鳥 君よびかへせ 小夜更けぬまに」

筑摩の浦にて・・・
「筑摩江や磯の藻林すぎゆけば名超の森や遠くなるらん」

布勢屋が原にて・・・
常にきく 布勢屋が原の きりきりす けふの名残の 音に通ふらん

加田の里にて・・・
植えおきて後のかたみとなす桜は色気 妙なる法の庭もせ

下坂郷の中村の里にて・・・
久礼竹の よるの夢路も 武士の手に取る弓の なかむらの里

只越山にて・・・
下坂の 只越やまに 宮居して 君が代千代を 守る神かな

諸神の岡にて・・・
松が枝に えださし交す桜花 香りもあかぬ 諸神の岡

参考:後鳥羽上皇と名越 昭和58年
   米原町指定無形民俗文化財調査報告「筑摩の鍋冠祭」昭和56年