名超寺(みょうちょうじ)

地名を取って「なごしでら」とも呼ばれている。

名超寺は、恵光山常喜院と号し、伊吹山寺の開祖三修(さんじゅ)沙門の高弟名超童子が藤原時代の初期に開いた。
爾来七堂伽藍、四十九院、九十九坊の寺観をそなえ、天台密教の道場として栄え壮観であったという。
しかし、今は往年の四十九院等はなく平等院、観成院の二院を在するのみである。
その伝在する仏像、仏画また、積善坊、仁王堂、釈迦堂等の地名によって巨刹たりし往昔を推想することができる。
現在の本堂は観音堂と呼ばれたもので、当初より奥五百米の権現谷の地に本堂跡がある。ご本尊は聖観音菩薩立像で木彫り一木造り、檜材素地のままで高さ等身(五尺三寸)の堂々たる巨像で、平安後期の特長を存した作風の尊像である。聖徳太子が作られたとされている。

また、後鳥羽上皇が天皇在位中の建久10年3月4日(1199)と上皇となられてからの承久2年(1220)4月に名超寺の僧禅行(天皇時代より親しくしていた僧)をたよって、潜に行幸され、本坊園光院に滞在されたという言い伝えがある。潜幸の目的は幕府調伏の祈祷を依頼したといわれている。

禅行が名超寺にはいった時期として、源平の争乱が激しかった治承4年(1180年)12月に、山本義経と平家方との戦いで名超寺は兵火に焼かれたが、文治5年(1189年)に再建され、この頃に比叡山宝幢院(ほうどういん)阿闍梨(あじゃり)禅行がうつったという。
承久の乱にて後鳥羽上皇が敗れ、隠岐の海士へ島流しとなったことを嘆き、禅行は悲しみのあまり亡くなってしまったといわれている。

時は流れ、文明9年に本堂造立が行われたが、元亀の乱(1570年~73年)の際には、浅井長政が延暦寺の応援を得て名超寺を保護したが、織田信長の命を受け柴田勝家により焼き払われた。(比叡山焼き討ちの中での出来事だった。)
その後、羽柴秀吉が長浜入城のとき、名超寺の衰退を嘆き、諸堂を再建した。
また秀吉が大檀那となって後鳥羽殿を造営した。
万治3年(1660年)行者堂が廃され、本堂を移築し後鳥羽殿を本堂に併祀している。

明治11年10月、明治天皇巡幸の際、住職名超還寂が後鳥羽上皇木造を大津の行在所へ運び、天皇の叡覧(えいらん)を受けた。同12年5月、許可を得て神殿を建て、正遷宮を行い後鳥羽神社が建立された。

住所

参考

・滋賀県神社庁
・長浜市史
・滋賀県の地名 平成3年
・近江興地志略 昭和51年
・改訂近江国坂田郡志  昭和17年
・長浜の歴史 昭和49年