後鳥羽上皇プロフィール

後鳥羽上皇は、治承4年7月14日(1180年8月6日)、高倉天皇の第四皇子として生を受ける。
後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟にあたる。

神器なき即位

1183年、源平の争乱の中、源義仲が入京すると、安徳天皇は三種の神器を携え、平氏一門と共に西国へ都落ちしました。これでは都での天皇の政務が停滞してしまうことから、都に残っていた後白河法皇は、神器が揃わない状態ではあるものの新しく帝を立てる必要があると考え1183年9月8日、尊成親王は後鳥羽天皇としてわずか3歳で践祚しました。安徳天皇は退位しないままであったため、1185年3月の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水するまでの2年間は、安徳天皇と後鳥羽天皇の2人の天皇が並び立つ、異例の事態が続きました。1185年以降、三種の神器の捜索は続けられていましたが、草薙剣だけが見つからず、伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を「形代」とすることになりました。1192年3月に後白河法皇がこの世を去るまで、後鳥羽天皇がまだ幼かったこともあり、実質的には後白河法皇の院政が敷かれていました。

後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)

源実朝暗殺事件

1210年、後鳥羽上皇が30歳の時、土御門天皇に退位を迫り守成親王を順徳天皇として即位させます。順徳天皇はこの時14歳で、後鳥羽上皇が引き続き院政を敷きました。後鳥羽上皇は公武協調という路線を進める上で、和歌という共通の興味もある源実朝を官位の上でも優遇し、1218年には実朝は武士として初めて右大臣にまで昇進させます。ところが1219年、鶴岡八幡宮へ拝賀に訪れた際、実朝は源頼家の息子である公暁に襲われて絶命しました。将軍空位という異常事態を早く脱しようと、幕府側は実朝存命中より進めていた後鳥羽上皇の親王を皇族将軍として鎌倉へ下向させる話を進めるべく、後鳥羽上皇のもとに使者を送りました。しかし、心を通わせていた実朝の命を守りきれなかった幕府に対する上皇の恨みは大きく、親王の下向は国を二分する可能性があるからとこの要求は受け入れられませんでした。ただし、代わりに関白摂政の子息を将軍にするなら良しとする妥協案が出され、鎌倉幕府は摂家将軍を迎えることとなります。

大内裏消失事件

1219年、後鳥羽上皇が39歳の時、大内裏が焼失する事件が起こります。在京御家人である源頼茂が謀反を起こし、仁寿殿に立てこもって火を放ったため、その火が内裏中に飛び火し、多くの建物が焼失してしまったのです。後鳥羽上皇は、三種の神器がなく即位したという特殊な事情を抱えていたこともあり、こうした天皇の権威の象徴たる大内裏の焼失は痛恨の極みであったようです。実際、この事件が起きてから、後鳥羽上皇は1ヶ月以上も病床についていたと記録に残っています。後鳥羽上皇はすぐさま大内裏の再建に取り掛かります。しかし再建費用を賄うための増税に対する抵抗など、様々な問題が起こりました。幕府を自分のコントロール下に置いておきたい後鳥羽上皇としては、徴税といった政治・経済的な面で幕府が独立して動きつつあることにストレスを感じ、それが承久の乱の引き金となっていくのです。

承久の乱

1221年4月2日、後鳥羽上皇(41歳)は承久の乱を起こす布石として、順徳天皇を懐成親王(仲恭天皇)へ譲位させます。後鳥羽上皇は在京御家人の取り込み工作に勤しみます。そして5月15日、「北条義時追討の院宣」を下します。後鳥羽上皇の元には、約1,700名の武士が集まりました。鎌倉幕府側は、頼朝の妻・北条政子が御家人たちに対し有名な叱咤激励の演説を打ったことで軍勢にまとまりを見せ、京都へ派兵しました。軍勢の数は19万人とも言われています。朝廷側は負け、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へ島流しに決まりました。幕府は仲恭天皇を退位させ、後鳥羽上皇の甥にあたる後堀河天皇を即位させます。後鳥羽上皇が支配していた荘園は幕府が没収しただけでなく、内大臣には親幕派の西園寺公経を任命し、朝廷は幕府のコントロールのもとに置かれるようになったのです。

隠岐へ配流と崩御

後鳥羽上皇は出家して法皇となり、隠岐へと向かいました。隠岐島は島前(どうぜん)と島後、そして多数の小さな島で形成されていますが、後鳥羽法皇が向かったのは島前の中ノ島(現在の海士町)です。ここで和歌活動と仏道修行の日々を過ごしました。何度か還京の話も持ち上がりましたが、幕府は承久の乱の前の朝廷に戻すつもりはないと許さなかったようです。1239年2月9日、後鳥羽法皇は死を悟ったのか、長らく仕えていた水無瀬親成に置文を書きます。自分が愛した水無瀬の所領を与えるので、そこで菩提を弔って欲しいという内容でした。そして1239(延応元)年2月22日、後鳥羽法皇は隠岐で没しました。享年60歳でした。後鳥羽法皇が幼い頃より可愛がり、隠岐でも共に暮らしていた西蓮(藤原能茂)が遺体を火葬し、遺骨を都に持ち帰りました。

歌人としての後鳥羽上皇

後鳥羽院は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。

院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。2度の百首歌を経て和歌に志を深めた院は勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)7月には和歌所を再興する。またこれより以前に未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰した。そして藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。

後鳥羽上皇と刀

後鳥羽上皇は武道にも秀で、自ら日本刀を打ったと伝えられるほど、歴代皇族の中でも異彩を放つ、天才肌の天皇と言えます。後鳥羽上皇が日本刀を作らせ始めたのは、1208年(承元2年)、29歳の頃と伝えられています(※異論・異説あり)。鎌倉幕府に対して朝廷の力を取り戻し、天皇親政を敷く意志を抱き、北面・西面の武士制度を整えた後鳥羽上皇。朝廷を守る武士達の士気を高め、日本刀の技術や文化水準を上げるための計画が御番鍛冶制でした。後鳥羽上皇が無類の刀剣好きになった理由には、壇ノ浦で入水した異母兄「安徳天皇」と共に、皇位継承に不可欠な神器の草薙剣が失われ、神器を持たずに即位した天皇としての引け目があったとも言われています。後鳥羽上皇自身が優れた刀の目利きであったことは、「後鳥羽天皇」の即位から15代、約150年間の歴史を記した歴史物語「増鏡」にも記されています。後鳥羽上皇は、腕の立つ諸国の刀工を「水無瀬宮」(現大阪府郡島本町)に集め、月番制で作刀にあたらせました。そして、自ら作刀にも積極的に取り組み、後鳥羽上皇自身が焼刃(やきば)した作品を「菊作」(きくさく)、あるいは菊御作として後世に伝えています。高貴な身分の人物が作刀した日本刀の証として、茎(なかご)には銘の代わりに、後鳥羽上皇が好んだ16や12弁の菊紋が毛彫りされており、これが皇室の紋章「菊花紋」の起源になったということです。

蹴鞠

鳥羽上皇はスポーツセンスも抜群で、特に力を入れたのが蹴鞠でした。蹴鞠は平安時代に宮中で流行し、鎌倉時代には武士階級でも盛んに行われるようになった遊戯であり、政治の上で重要な藝とされていました。1208年(承元2年)に水無瀬離宮で催された蹴鞠の会で後鳥羽上皇は、2000回以上という記録をつくって「この道の長者」と称されるようになり、その後、上皇自ら蹴鞠に関する規則を作るほど力を入れていました。

参考

  • ウィキペディア:フリー百科事典(webサイト)
  • Rekisiru(webサイト)
  • 歴人マガジン(webサイト)
  • 刀剣ワールド(webサイト)
  • 歴史上の人物外伝(webサイト)
  • 日本史事典.com(webサイト)