後鳥羽上皇と鳥羽上

大昔、現在の鳥羽上町は安奈邑(吾名邑、穴村)と呼ばれていました。正治元年((1199年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のため兵を募る目的で名越の名超寺に御巡幸になったとき、古刹であった法徳寺に立ち寄られ国政回復を祈願されたと伝えられている。その後も上皇と安奈邑の関係は続く、正和四年(1315年)発給の「鳥羽上庄預所職宛行状」には、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫宗舜に対して当庄預所職を与えられたという記録もある。
鳥羽上、常喜、名越一帯に鳥羽上の庄が置かれていたと推定されている。正和三年(1314年)には、現在の水無瀬神宮(大阪府島本町)にあたる後鳥羽院御影堂の堂領(御堂の維持費をまかなう領地)として置かれた。同年8月の山城国粟田青蓮院文章に鳥羽上の庄の地名が見られる。康応元年(1389年)「鳥羽上庄は常喜庄に分立せり」との記録がある。応永十五年(1409年)大日本社寺録によると、正平十五年(1361年)大改革により安奈村から鳥羽上村に改称したとある。従って、この時代に鳥羽上という地名になったことは確かである。

住所

参考

・風土記 鳥羽上北 北村與作著