豊菊乃墓(とよきくのはか)

近江の国、浅井郡七尾村今荘の郷土の娘に「豊菊」という者がいた。
この地に潜幸した際、後鳥羽上皇の采女(うねめ)として仕えていた。
承久の乱が失敗に終わり、上皇が隠岐に流されたと聞き悲しみのあまり近くの池に身を投じて亡くなった。時の人々は塚(墓)を築き、供養を怠らなかったといいます。
土地の古謡に豊菊のことがうたわれています。

佐野の南の 今荘の北の にほいほんじる 豊の菊。
佐野の東の 今荘の北に にほんくんずる 豊菊さまの塚。

現在は今荘町の北入口の三路の角に新しく「豊菊の墓」が現存する。
別説によれば、豊菊は新庄馬場の誓伝寺の娘だとの説。また、豊菊は新庄馬場の誓傳寺(リンク飛ばしたい)にも伝承が残っています。

坂田郡誌によれば、坂田村宇賀野蓮成寺に後鳥羽上皇の皇子雅成親王の墓があり、雅成親王は同村の歓喜光寺にてお誕生され母は豊菊なりとあるも、確証する資料は見当たらない。
今の墓は昭和48年頃に建立されたものであり、もともとは、東浅井郡浅井町今庄(当時)の北の方の田の中に東西およそ1.5m、南北2m余の芝生の塚のようなものが「豊菊塚」といわれています。

住所

参考

・後鳥羽上皇と名越 昭和58年
・改訂近江国坂田郡志  昭和17年
・長浜の歴史 昭和49年